ルードヴィッヒ王は何者かに射殺されたのですか?
TOP- Anfang
|
ルードヴィッヒ世のシュタルンベルガー湖での死は、今なお謎に包まれており、今後も謎が解けることはないでしょう。しかし、いくつかの目撃者の証言により、彼の死が自殺ではない、と証明されています。ルードヴィッヒは死にたくありませんでした。彼は、個人的な利害や興味にのみとらわれ、自らの権力や地位を失うよりは王を殺害した方がよい、と考えた人々によって裏切られたのです。 かつてルードヴィッヒは、手紙の中で、彼が好んだシラーのある引用文をしたためています。”私は永遠の謎に包まれていたい。自分に対しても、そして他の人間に対しても”。そして彼の運命は、その言葉の通りになったわけです。 |
ノイシュヴァンシュタイン城は完成されたのでしょうか? TOP- Anfang
|
いいえ。着工式は1896年9月5日になされ、当時の建築計画によれば城は1893年に完成する予定でした。城の暖炉のある部屋〈私室)はルードヴィッヒの死後、簡素化されたかたちで造られましたが、城の他の部屋と同様、空のまま残されました。素晴らしい聖杯堂としての礼拝堂の建設は最上階の中心に計画されていましたが、まったく手をつけられていません。(その基礎設計は実際に目にすることができます)また今日存在する北塔は、当初設計されていたものより低いものです。 |

お城の中に電話が設置されていたというのは本当ですか?
TOP- Anfang
|
はい、実際に設置されていました。お城の中では当時の進んだ様々なテクノロジーが利用されていたのです。例えば、電気仕掛けの”呼びかけ設備”…これは、王が召使の人を部屋に呼ぶ時に使われたものです。ある電光が点くことで、その呼びかけがどの部屋からなのか、ということがわかる仕掛けです。またセントラルヒーティングでの暖房システムや、城より更に約200メートル高い所にある泉より水を供給する施設を備えていました。最も驚くべき新しい技術は台所に多く見ることができます。温・冷水の供給システム、エレベーター、オーヴンの熱で皿を暖める機械、レオナルド・ダ・ヴィンチの発明をもとにつくられた完全自動式の回転する焼き串、まで備えられていたのです。 |
なぜ王座の間に王座が置かれていないのですか?
TOP- Anfang
|
ルードヴィッヒ世が急逝した時、王座はすでに注文されていたものの、制作されてはいませんでした。王の死後、お金を節約するために、この注文はキャンセルされました。いくつかのスケッチのみが残されたわけです。 |

なぜルードヴィッヒは結婚しなかったのですか?彼は女性が好きではなかったのですか?
TOP-
Anfang
ルードヴィッヒはとても人間を大切にし、愛し、男女の別にかかわらず、可能な限り深く長い友情を結ぶ人でした。彼にとって耐え難かったのは、不誠実であることと、人を騙す、ということでした。彼の肉親や民衆は、世継ぎのためにもルードヴィッヒの結婚を望みましたが、彼には政略結婚というものを受け入れる事ができませんでした。そのため、いとこであるソフィー(バイエルン大公妃,シシーの妹)との婚約も、彼女のことを大切に思ってはいたものの愛することができなかったために、破棄してしまいます。
短いその生涯の中で、彼は多くの女性ととてもよい関係を築きました。その中には、彼がとても賛美していた芸術家たち…例えば、ハンガリー人の女優リラ・フォン・ブルヨフスキーや、マリー・ダーン=ハウスマン、歌手のマティルデ・マリンガーなどがいます。彼の教育、世話係だったシビラ・マイルハウスや、コジマ・ワーグナーとの文通は絶えることなく続けられました。そして、いとこであるエリザベス(シシー)との関係は、お互いにとって最も深く強いものであったことでしょう。 |
なぜルードヴィッヒはノイシュヴァンシュタイン城を建設することを思い立ったのですか? TOP- Anfang
彼がまだ年若い王子さまだった頃、彼は多くの時間を弟のオットーと共に過ごしました。特に夏になると、フュッセンの近くにある、父親の城であるホーエンシュヴァンガウ城にやって来ては時を過ごしました。マクシミリアン世(Max )が、中世の古い廃墟と化した城跡の上にこのホーエンシュヴァンガウ城を建設したように、ルードヴィッヒもホーエンシュヴァンガウ城の近辺にあった古い廃墟の上に再び生命を取り戻させたい、と考えたわけです。その場所からの眺めを彼は愛し、彼は”新しい城”を夢見ていました。着工式に取りかかる1年ほど前、彼はヴァーグナーに宛てて次のように書いています:"私はぺラットシュルッフトの傍のホーエンシュヴァンガウにある古い城跡の上に、再び城…正真証明の古いドイツの騎士城を建てることを考えています。その場所は、最も美しく、また神聖で近寄りがたいほどの場所です” 一度お城をご覧になったことがあれば、王の意見に同意されることでしょう!
|
ヴァーグナーにとって、ルードヴィッヒの援助はどの程度重要だったのですか?
TOP- Anfang
ルードヴィッヒがいなければ、恐らく今日我々が、ニーベルンゲンの指輪、パルジファルを耳にすることはなく、またバイロイト祝祭歌劇場も有りえなかったでしょう。若き王がヴァーグナーを呼び寄せた時、この作曲家は絶望のどん底にありました。山のような借金があったからです。ルードヴィッヒはそんな彼に借金を返済するための多額のお金を与えただけでなく、希望と勇気を与えました。ヴァーグナーに出会ったころのルードヴィッヒの手紙にはこう書かれています。”あなたの日々生活の細々した問題は、私が永久にあなたの頭の中から取り除いてあげます”と。ヴァーグナーが、彼のよき信奉者であった人物と結婚していたコジマ・リストを自分のもとに寄せたかった時、ルードヴィッヒは彼にとっての巨匠であり友人であるヴァーグナーを助けるために、このコジマの愛の関係を黙認していました。コジマとの文通の中で、彼は、ヴァーグナーの本当のところの希望、望みを知ろうとしていたほどです。そして、ヴァーグナーが、彼の歌劇場をミュンヘンにではなくバイロイトに建設することを決めた時、ルードヴィッヒは様々な問題を無視して、そのプランを実現するために必要な費用を負担しました。王自身、その当時、自分自身の建設を続けるにあたり大きな経済問題を抱えていたにもかかわらず!
1865年にルードヴィッヒは、ヴァーグナーに宛て、予言めいたことを書き記しています。”いつか我々の命が絶えても、我々の作品は後世に光り輝く理想として生き続けるのです。その理想は何世紀にもわたり人々を魅了し、その熱狂は、神から生まれた芸術として、人々の心に永遠に熱く燃え盛るのです!” |
ルードヴィッヒとビスマルクの関係はよいものでしたか?
TOP- Anfang.
|
えぇ、もちろん!この二人の人間は、まったく違った世界観を持っていたけれど、彼らはとても緊密に結ばれ、その友情は真のものでした。この“鉄の宰相”は、常にルードヴィッヒの肖像画を仕事部屋に飾る事を望んでいたほどです。またルードヴィッヒも、ビスマルクのことを生涯信頼していました。彼の最も困難だった時代に、彼の最後の手紙をビスマルクに宛ててしたためています。王はビスマルクに対し、裏切りに対処するための助言を求め、ビスマルクはそれにすぐ返答を送りました。二人は、ルードヴィッヒがまだ皇太子だった頃に一度だけ会ったことがあるだけでしたが、ルードヴィッヒの死まで、その手紙を交換するという形での友情は途切れることがありませんでした。ビスマルクはその若い王を賛美し、また、”どの大臣よりも”国を統治するということを理解していた、と確信していました(1883)。その最期に関してビスマルクは、次のような印象を持ったと語っています。バイエルン王国の大臣達は、自分たちの地位を守るために、王を”虐殺”したかったのだ、と。 |
このお城の周辺の特色で、他の地域に見られないものはどんなものですか? TOP-Anfang .
|
まずは何よりも、素晴らしい自然と文化のバランス、ということが挙げられるでしょう。これはなかなか他では見られないほどのものです。例えば、太平洋のある島に旅をするとします。そこでは、何の妨げもなく存分に自然を楽しむことができることは確かで、それはとても気持ちのよいことです。しかし数日経ちますと、その状態に飽きがきて、人間の創った豊かな文化というものを恋しく思う気持ちが湧いてくるでしょう。また、ローマやパリに旅をしますと、私はその豊かな芸術作品に囲まれ、それらを堪能しますが、いつしか、豊かな自然というものを求める気持ちになるのです。この”王の避暑地”と呼ばれる地域では、とても美しく豊かな自然と、素晴らしい文化とのハーモニーに囲まれて、私の精神は穏やかに落ちつくことができるのです。ここでは肉体と魂、感覚的なものと精神的なものが、最高の状態で結びついており、それぞれがお互いに、光りと強さを与えあっている、ということが言えると思います。それにより、忘れることのできないほどの内面の静けさを得ることができるのです。15世紀のマクシミリアン世や、その後のマクシミリアン世、そしてその息子、ルードヴィッヒ世ら、数々の王たちが、バイエルン地方の中で、ここを避暑地として選んだのも、偶然の一致ではないでしょう… |
.
そのようなハーモニーというものは、その地域に住む人々にも影響していますか? TOP-
Anfang.
|
もちろんです!ですから、この地域の人々の多くは、とても友好的で、お互いを助け合う人々ばかりです。もちろん例外もありますが、私個人はたくさんのポジティヴな体験をし、人々が私を助け、私の滞在を“金色に輝かせてくれた”エピソードを語り始めたら、何時間でも時間が過ぎてしまうことでしょう。ここでは、多くの大都市に見られるような慌しい人に出会うことは稀です。この地の人々は、生活を楽しむことを知っているのです。そうですね、それらを実感するために、例えば一度、ひっそりと在るビール醸造酒屋などに足を運んで見るといいかもしれません。そこに座る人々は、なんとも朗らかに、くつろいだ雰囲気で楽しんでいます。私たちは、そこにただ、座ればいいのです。美味しい自家醸造のビールと、郷土料理が、さらに雰囲気を盛り上げてくれる事でしょう。 |
.
食事はどのようですか? TOP- Anfang .
素晴らしいです!ここでは本当に”王さまのように”食事を楽しむことができます。前菜からデザートに至るまで、質が高く、多くがこの地方の材料を利用した健康的なものでもあります。料金は他と比較して、決して高いものではありません。そして何より、美しい景色と並んで“天国”のようであるのは、美味しいケーキの数々…私はここでは、まるでケーキおばさんのようです!
とても居心地がいいのは、ここでは食事の時間の拘束が無いことです。焼きソーセージ(Bratwurst)を朝10時に食べることもできれば、コーヒーとケーキを昼食として注文することもでき、それを他の人から奇妙な目で眺められたりすることは、決してありません。そんなことは、例えばギリシャやスペイン、イタリアではまず無理でしょう。それらの場所では、多くのレストランが、夜には9時半以降に開いたりするのですから。それに比べますと、ここではしばしば「1日中、暖かい料理を提供します。(durchgehend warme Kuche)」という看板を見ることができます。この地のモットー、”生きる。そして他の人間もそのスタイルで生きることができる”ということの表れと言えるでしょう。 |
..
どうしてここに住むことを選んだのですか? TOP-
Anfang .
|
ここでの世界がとても居心地よく、人生が満たされるからです。社会的にも、自然との結びつき、という点に於いても、です。この環境はとても人間的です。私が旅に出るとーこの地から離れるとー私はいつもホームシックにかかってしまいます。この地方は、人々に対しいつも腕を広げて待っていてくれて、”アットホームに(zu Hause)”くつろがせてくれるのです。一方、公共のサービス、システムの仕組みや働きは、安全で確かな生活を送る為に重要な要素でありますが、それらも、とてもよく機能しています。数々の店は、友好的でー付け加えて言えば、たまに寝坊してしまうこともあるみたいですがーそんな愛嬌が私はとても気に入っていますし、又、お店の仕事が、充分にニーズに応え、ポジティヴに受けとめられています。素敵なことだと思いませんか?ここでは人生が、かつて王さまたちがこの小さな地方を避暑地として選んだ当時と同じように、堂々としていて、意味のあるものなのです。 |
..
いい写真を撮影するのには適していますか? TOP-
Anfang .
|
この”王の避暑地”と呼ばれる地域は、まさに写真の地、と呼べるほどです。どの写真愛好家も、ここではプロ並みの体験を楽しむことができます。自然の景色、家並み、王の城、どれをとっても魅力的な題材で、素敵な写真を撮ることができるでしょう。そして、他の場所と違って、天気の良し悪しに左右されることがあまりありません!多くの場所では太陽が照った時にのみ、美しい写真が撮れる、ということがあるみたいですが、ここでは、トスカーナ地方でのような照りつく太陽の下よりも、霧の中での方が美しいこともよくあるのです。それは、四季を通じて言えることです。冬が夏よりも美しいこともありますし、春の色とりどりの花に満ちた野原や、秋の色合いを想像しますと、どの季節が一番だ、とはなかなか決めかねてしまう美しさなのです。 |